日本男色考 田原香風

一、男色の起源



我が国に於ける男色は何時の時代に発生したものか、勿論明確には知ることが不可能と云ふて良い。 何事でも遠く起源を尋ねることは比較的容易のやうであるが、果たして真実であるか否かは何人にも名言の出来ぬことである。
従つて茲に記録的のものより抜文して参考迄として、読者諸子の判断にお任せ致したい。

西鶴の「男色大鑑」

天照神代の始め、浮橋の瓦に棲める尻引と云へる鳥の教へで衆道に基き日千麿命を愛し給へり、萬の虫迄も若契の形を現すが故に、日本を蜻蛉國と云へり
と記載されて居るが、西鶴は後世の人で果して何の根拠で、何の原本で認定したのであらうか、

嬰々筆語」に

小竹祝(しぬのはふり)、天野祝(あまののはふり)とが交友(むつましみ)は、後の世のいはゆる念契にて、男色は最初(はじめ)なりにこそ、 此の二人の祝の事、何をあかしに男色とはするぞといはんに、いかなる善友(うるはしきとも)にもあれ、 一人が逢病(ここちわずら)ひて世をさりたればとて、自が奉仕る神事をも捨て自殺せむこと、 かけてもあるまじきいはれなれば也(なほいはゞその死別をかなしむあまりに、同穴の言だてして、 屍によりそひて自殺したらむさま、全く今世の男女の情死に同じきぞかし)男色は神理にたがへる穢行にていみじき罪なるはさらにもいはず、 合葬といふことをさへなしたらむには、正気を壅遏(ふさぎとどめ)して空気のみ充満し、日暉(ひのひかり)をも覆塞すべし。 不正の空気充満して、神気の正しきを壅遏しからば畫はた暗かるべきことわり、いさゝかも疑はしからざるにあらずや

となり、本書の根拠とする所は「日本書紀」の神功皇后期の攝政元年に「阿亞那比(あずなひ)の罪」と誌されて居るのは、旧約聖書にある。 ソドムの涜罪と同じく、神の忌を受けた男色の罪として居るのである。

本居内遠の「賤者考」男色之條に

男色はいつの頃よりかありはじめけむ始詳ならず。まづは仏法渡来の後、僧の女犯を禁ずるより出しはおのづからの勢なり、 俗伝に何の拠もいはずして空海よりなどといふは、もと言伝ふる所ありにや……」

更に同氏の「和歌の浦鶴」九郎篇に

世俗には空海の比よりいふも随分さやうにたれも〱思ふことにてはあれど、さりとてそれも証ありていふにはあらず。 ただ想像と、後世出家などの専とそのわざあるよりいふなり……」

と僧空海を男色の創始者、或は唐より輸入し伝播者と看做す俗説に一矢を向けて攻議して居るのである。

天和頃の貝原好古の「大和事始」には

我朝にて男色を愛する事、空海法師渡唐以来のもの也と云伝ふれど、 続日本紀に、孝謙天皇の御時、道祖王(ふなどのおほぎみ)ひそかに侍童にかよへりとあれば、 猶其前久しきことにや、或人の云ふ、破戒の比丘の此戯は弘法以来の事成べし

と、続日本紀巻二十、孝謙天皇、天平宝字元年の條に、 諸大臣打寄り道祖王の淫縦な行為を非難し協議して而王(道祖王)諒闇未ㇾ終陵草未ㇾ乾私通侍童……とあるを根拠として 僧空海より以前の道祖王を始創と認定したもので、其の後本書は他書に引用され、 天野信景の「鹽尻」等にも鵜呑みとされる様になつたのであるが 「通(二)侍童(一)」の文字は果して直に男色と解して良いかどうか相当異論が在り、前後の文章を十分検討すべきであるとも云はれて居る。

井澤長秀の「広益俗話弁」に

俗説云、日本にて男色をもてあそぶは道祖王よりおこるといふ。 今按ずるに、此説は続日本紀に聖武天皇崩御諒闇未ㇾ終陵草未ㇾ乾私通侍童とあるを男子とす。 侍童とは童男童女ともに称せり、道祖王の通ぜしは側につかへる童女をいへり、中山忠親の水鏡に云、 孝謙天皇の御とき、東宮は新田部親王の子道祖王とておはせしに、聖武天皇うせさせ給ひて諒闇にてありしに、 この東宮このほどをもはゞり給はず、女のかたにのみみだれ給へりしとあり、(水鏡巻之下、第四十八代廃帝の條)続日本紀と考へあはせて証とすべし

と侍童とは童男童女を総称するものとして反駁するのであるが、果して何れを是とし否とするか究明しやうとしても、 単なる文字の上の議論なれば中々実証されず、何れにも理屈を付けることが出来ると思はれるので 玆(ここ)では此の究明は徒らは煩雑となる許りだから只だ記憶にとゞめて置く。

更に小山田興清の「男色公」には

畏くも大兄皇子は鎌足公と菊の契り在り……

と記して中大兄皇子を男色の始源者としやうとして居る。
斯の如く諸説各々根拠を以て主張して居るのであるが、更に之れを裏書立証するに資料に乏しい感が在る。 而し、依つて我国の男色の蛮風も、相当古くから存在したと推論だけは差支なからうと思ふ。






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底本について

田原香風著『日本男色考』
茜書房刊、昭和二十二年一月三十一日発行、定価十五円
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