男色は同性愛の内の、男性にして男性を愛し、相互姦淫、股間姦淫、鶏姦等を行ふことで。「龍陽の交わり」(龍陽とは龍陽君が魏王に君寵の長からんことを乞ひたるに魏王誓つて美人を近づけずと答へた故事より起る)と云ひ、或は「皮ツルミ」又は「千鳥」と名付けられ、支郡(表記ママ)にては「兌車」と称せられて居る。之れに反して女性同志の同性愛を「トイチハイチ」(ト一八一)と称せられ、支郡にては「對食」の文字が使用されて居る
漢書の「趙皇后傅」中に
宮婢道房と中宮史曹の宮と對食しはなはだ相妬忌す、此風相傅り後世に至るも曾て改らず
とあり。又現代に近い清朝の時代に到つても
官人伉麗する之を對食と云ひ、又是れを菜戸と云ふ。若し強いて伉麗を作るものを白浪子と称す(白浪子とは事業とする相手方の女性を称す)
とあり、又彼のカタリ十二世女帝は
点は何故に吾曹に第六感を与へざりしかと嘆息した。
等の記録に依つても、女性相互の同性媾接も亦古い歴史を持ち、世界各地でも行はれる醜行である。(古代希臘の「トリハス」と呼ばれた淫女は娼妓ではなく同性媾接の専業者だと云はれて居る)然らば此の不自然極りない蛮習は何んの要求あつて、存在するに至つたのであらうか、其処には何にか知ら、必然的な強力の存在価値がなければならぬことである。
赤津誠内氏は、
同性愛とは、説としては同性間性欲、転倒性欲などと呼ばれて頗る諸説に富んでゐるやうである。即ち、原則として、男性は女性に、女性は男性に相ひかれ、相対して性欲せられるものを、男性が男性に、女性が女性に相ひかれ、しかも同性が性欲を感じる変態性欲である。
と病的な変態的行為として居る。
杉田直樹博士は
同性愛とは、自分と同性の者に対して強い色情的の愛情を発し、異性には少しも心ひかれない。男性にて男性を愛し、相互姦淫、股間姦淫、鶏冠等を行ひ、互に嫉妬し情死するものもある。
また女子にして女子を愛するものは、昔、有名な女詩人、サツフオがその傾向があつたと言ふ所から、その出生地の名からとつて、「レズビアの愛」とも呼ばれ、その例は近代に於ても決して乏しくない。女性同志が相抱擁し、媾接を行ひ、強い恋情を発し、男女間に於けると同様な嫉妬や情死やを行ふ。
と此れも変態的行為とのみ解して居る。更に之れが発生原因に対し、精神分析学の姑祖と称せられて居るライーンのフロイド博士は、
現在性的能力に制限を加へる法律に敢然として反対する同性愛の男性達は、自己が幼い時から早くも識別され得る性の中間的過程、即ち第三性とも云ふべき一種の性的倒錯であるろいふことを学者の代弁によつて世人に認めしめんとするものである。換言するならば、彼等は自己の持つて生れた生理的要素に制約されて、女性のうちに見出されない喜悦を男性の中に見出すといふことを主張するのである。彼等の要求を正しく充たさせようと欲するならば、我々は先づ、同性愛の心理的起因と無視して述べられた彼等の見解を、徹底的に分析し批判しなけらばならない。精神分析学は、彼等の主張を検討して、そのギヤツプを充たすべき方法を発見せんとするものである。
精神分析学が、この方面の試みに於て、成功を収めた数は少ないが、とまれ従来なされた研究の結果は、驚くべきほど効果的であつたことを証して居る。
我々が実際に研究せる男性の同性愛者は、凡べて過去に於て、女性に対し非常に強烈なエロテイツクな執着をもつて居た。通常斯くの如き執着は、母親に対するものであり、幼時に経験し成功するに従つて常人は全く忘却して失ふものである。この愛情は母親からの強い情愛に依つて生起し、おゝいに強められるものである。
サドガーは次の事実を強調する。
彼の取り扱つた同性発達の母親は、概して男性的な女性であり、家庭内に於ては支配者の如く振舞ひ、強い精力的な点を特徴とする性格の女性であつた。
斯くの如き事実を、彼は累々見分したのであるが、彼をして更に印象強く覚えしめた事実は、最初から父親がないか、或は幼少の頃失つたかによつて、子供が全く女性の影響の下に生育して来たといふことである。
以上の如き事実を考察するならば、男らしい父親の存在は、その伜の異性より恋愛対象を選択する場合の正しい標準を与へるものであるかの如く考へられる。
この最初の段階を終ると、一つの変化が起るのであるが、現在、我々の智識では如何なる変化であるかに就ては知り得るが、その誘因となつた力に就ては遺憾乍ら、未だ十分理解することが出来ない。母親に対する愛情は、意識的には何時までも発達するものでなく、或る時期に至れば、抑圧された形態を採るに至る。少年は彼自身母親の位置に取つて代り、自己と母親を全く等しいものと考へ、自己をモデルの如く見做して、これによつて恋愛の対象を選択するに至る。斯くの如くして、彼は同性愛となる。彼は自己性愛の過程に復帰する。何故ならば、今や成熟せる彼は、愛撫するところの少年達は、嘗ては母親に愛撫された幼年時代の彼自身の復活、或は身代りでありそれを彼が嘗て自己が経験したと同様の方法を以て愛撫してゐるのであるから。斯くの如くして、彼の愛撫の対象は、徐々にナーシズムに近くなる。ナーシズムとは、ギリシヤの伝説、鏡に映じた自己の姿に激しいあいちゃくを覚えたといふナーシサスより出た言葉である。
更に深く精神分析的考察を行へば、斯くの如き過程を経て、同性愛に陥れる人は、無意識の裡に、母親に就ての記憶を非常にはつきりと持つて居ることを知る。母親に対する愛情を抑圧することによつて、この抑圧の故にこそ、彼は無意識の裡に、その愛情を保持せるものであり、従つて対して変らぬ熱意を有するものである。
斯くの如くして、彼が少年達をその愛人として求めることは、彼の関心を自己に惹きつけ、ひいては母親に対する彼の愛情を、獲得せんと誘惑する多くの若き女性達を事実上避けてゐると解明されるべき事柄である。
と心理的原因に依るものなりと強調されてゐる。
ウイルヘルム・ステツケル博士は
同性愛者は幼時より性的関係に対する極度の恐怖と嫌悪とに依つてのみ抑圧される。この抑圧の結果、性的満足の正常なる形態に於てよりも異状なる形態に於て求めんとする傾向となつて現はれるものである。
と同性的神経病だと称して居る。フロイドの協同者だつたフリッツ・フイテル博士も、
特殊な家庭に育つた、凡べての青年は、神経病又は同性愛者になる惧れがある。度々離婚した夫人や寡婦には、息子が一人きり残されることがある。斯くの如き場合、彼女は息子が彼の感情に依つて彼女の失つたものを、補ふべきが当然だと考へる。子供はこのことが苦痛となり。母親は普通の場合罪悪感によつてそれを認める。
彼は暇な時間を彼女に捧げねばならない。母親は、自己の息子以外には他の何物にも興味がない。彼女は自己の生活を捧げる。全く不必要な犠牲である。
青春期に於てさへも、斯くの如き関係は屡々(しばしば)性欲化されてくる。若しも両親が子供たちをあまり密接に引き付けて置くならば、その時には愛情の中に、近親相姦の色彩が現はれるようになり、そして一方に於ける早熟な本能と社会的タブーとの間にある子供の中に抗争が起るのである。この抗争は、後に至つて種々の方法によつて解消する。斯くの如き方法の一つは、血族相姦を免れるための同性愛である。
人間は自己を他人と同化せしめる能力を持つてゐる。故に彼は、彼自身をあたかも他人の如く感じるのである。少年達は、彼等の父親と彼等自身を同化することによつて、大人になるのである。彼等は、母親と同化することによつて女性らしくなる。従つて、同性愛の危険が見られる。
同性愛……それが神経病であるかぎりに於ては——エデイプス・コムプレツクスに起因してゐる、
と男女間の不自然な分離、境遇、誘惑より発生の原因があり更にエデトプス・コムプレツクス——即ち性を異にせる親子間の精神的抑圧関係が最も深い原因を成すと説くのである。又、アルフツド・アドラー氏は
同性愛は疑心暗鬼とも云ふべきもので、精神的影像の作用の結果である。概して神経質の子供は、立派なる男性に標準を決定する。そして男性の属性とは、侵略、活動、権力、自由、富、等にして、反対に、抑制、臆病、服従、貧困等が女性の属性であると考へせしめる。然るに子供は或る期間内は、両性の役割を遂行する。即ち両親教師に対しては、服従し、一方空想の世界に於いては独立、自由等に対する欲望を拡げるものである。斯くの如き少年時代の心理的二重性——意識の分裂の萌芽とも云ふべき——は、生育と共に種々様々な現象形態を採つて現はれて来る。即ち少年の意思は、男女の両傾向の間を動揺しつゝも、その統一を企図するのである。しかし、その統一は失敗に終り、遂に少年の有する両性的傾向は互に牽制し合ひ、最後に一方の完全なる働きを不可能ならしめるに至る。その結果、種々の性的倒錯となるに至るのである。
再言すれば、一個人の意識内に於ける両性的傾向の闘争は、種々の形態をとつて、生活の凡ゆる方面に亘って表面的に表はれるものである。故に容貌、知識並に社会的地位に於て、劣れる女性達が、そのことに満足し得ず、而かも、他の方法——その一つは芸術的才能の発揮——によつて補足することの不可能な場合、概して男性となることを意識的にも欲するに至るものである。即ち意識的には、出来る限り男性的行動をなし。無意識的には、心理的、精神的、性的にも男性とならんことを夢見るに至る。
上に伸びよう。向上しようとの不断の願望は、遂に恋愛関係に於いても、その他一切の点に於て、男性的役割の獲得を望ませるに至るのである。
と、心理的観点より力説して居る。
然るに、若返り法で有名のスタイナツハ博士は、動物の実験的結晶の結果
女性の生殖巣を移植された男性は、生理的にも習慣的にも女性の特徴を完全にそなへ、青春期に入つては、女性には何等の誘引も感ぜず、寧ろ男性を牽引し、同時に自らも牽引されるものである
と、性的に未発達である幼い鼠への雄性又は雌性の生殖巣の移植実験より、同性愛と内分泌腺との密接な関係がなることより、結論を導き出したのである。然るにケンプ博士の所論によれば、
正常な、或は精神病者の多数の例から考察するに、男性との性的交渉は、通常破綻又は分裂の危機を孕むものゝ如くである。相手が性的に冷淡であるとか、経済的に余裕がないとか、妊娠を恐れるとか、或は花柳病、犯罪、相手の死亡または、母親の愛情が子供に奪はれて了ふ等の理由のために、或は相手の身内達による権力のはく奪の陰謀等が、遂に理想化された希望を打ち砕く時、同性愛へと退化するのである。同性愛に於いては、少なくとも親としての犠牲は要求されないから……
と同性愛を一種の生物学的義務よりの逃避で中和的方法であるとの見解を述べて居る。
斯くの如く、その発生原因に就いては世界各国の権威専門家に於て、諸説紛々たる有様で、その何れが最も妥当普遍的であるか我々の結論すべきところではないことは勿論である。精神分析学者として有名なアメリカのアンドリー・ツリードン氏は、
同性愛を最も正しく理解するには、それは神経病そのものではなく、神経的症状の一現象、換言するならば、アドラー博士の見解の如く、生活に対する神経質的態度の一形態と見るべきであらう。
と述べられて居る。
だが肉体的、生理或は精神的異常とのみ一決して其他の原因を閑却して了ふ訳には行かぬであらう。何れが重く、何れが軽く、その原因結果が判明しないが異性間の肉欲的快楽に満喫した人達が病的に或いは刺激的に此の悪習を求むる場合もあり。正常な異性間の肉体関係が禁制されたが故に、余儀なく同性愛に走る僧侶や獄中の女囚や、また病院の看護婦、或は寄宿舎の女生徒のような場合もあり、此等の環境支配や社会的原因の後天性をも閑却することは出来ないことである。
無味な斯うした検討は此の程度にとゞめ、此れから現実の歴史的事実に目を注いでみよう。
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底本について
田原香風著『日本男色考』
茜書房刊、昭和二十二年一月三十一日発行、定価十五円