田原香風著『日本男色考』

(四)奈良朝時代



神功三韓征伐に依り応神帝の御字には漢籍が入り、欽明帝の御代に到つて仏教渡来して、開国以来神道の一道のみとされて居た我国へ仏教、儒教が採り入れられ、玆(ここ)に新らしい外来思想と支郡、朝鮮の新らしい大陸文化が輸入されて、彼の地への人の交流等が手伝つて急激の伝派で諸種の風習、制度が輸入されて新文化に依つて諸制度が改変されるに到つたのであつた。

従つて男女関係も此等の思想的影響から、貞操観念に対して新らしい批判が加へられ、大宝律令には淫乱の妻は離別することが出来るような制度も設けられるようになつたが、一方には又外来思想や外交的必要から、来客の饗応のためには妻女を以つて礼遇することは貴賓に対する至上の礼風の如く解せられ、我国売淫史上に於ては接待的売淫時代とも呼ぶことが出来るような現象が現はれて来た。

然るに文学の勃興も伴ひ、益々男女関係に新らしい傾向が影響されて、男色史上の黎明期となつた。

男色は女色の如く全般的のものでなく、病的な行為だけに一部分的の流行物である。而かも病的行為とされるが、その始源は仏教到来から女犯の戒律厳しく、僧侶の権威も次第に認められたので、続いて貴紳間に持て囃され、遂には一般民間に広まり、全国的に瀰漫(びまん)するといふ様に流行して、頑童、姣兒が出現し寵愛を受けるようになつた。

「通台集」の一節には

我朝の昔伊勢が弟の大門の中将と五年にあまり念友、初冠せしも、奈良の都にかづの念者を見限り、若紫の帽子
これこそ野郎の元祖なり、

とあり。

奈良朝時代唯一の歌集「万葉集」の中には幾つかの同性恋歌が収められて、今日の我々に文字を以つて残して居るのである。

「源氏物語湖月抄」の著者、北村季吟は、古来の男色に関する文献として有名になつて居る「岩ツヽジ」の中に我朝で史蹟に残つた最初の男色は当代の歌人大伴家持が藤原久須麻呂を愛したのに在り

と「万葉集」の中から三首の和歌。

春之雨者彌布落爾梅花、未唉久伊等若美可聞。
(はるのあめは いやしきふるに うめのはな、いまださかなく いとわかみかも)
如夢所念鴨爰八師君之使乃麻禰久通者。
(ゆめのごと おもほゆるか かしきやし きみがつかひの まねくかよへば)
浦若見花咲難寸梅乎植而人之事重念曾吾爲類。
(うらわかみ はなさきがたし うめをうえて ひとのこと しずみおもひぞわかす)

大伴宿禰家持は、「万葉集」中では最も多数の和歌を収められて居る一人で、「万葉集」は橘諸兄が撰し、家持は補修したものと云はれて居るだけ収録数も多いのであらう。家持は旅人の子で、元平中従五位下越中守となり、更に中納言に進み、持節征東大将等に累進し延暦四年(七八五年)八月没した人で、家籍を没せられたことも在つたが、桓武天皇の時再び本位に復した人である、家持は相当の色男であつたらしく、幾多の贈答歌中からも当時の娘子(おとめ)達から恋愛の対当者として恋慕されて居たことゝ覗はれる。然るに男色家として亦頑童の寵愛をつゞけて居るだけに、その容姿甚だ優れた人であらうと想像されて居る、少年の頃には内舎人を勤めたのも其の容色が愛せられたものと想像される。然るに青壮年になるると容貌彌々(いよいよ)端正となり、異性からの恋慕も激しかつたと見られる。而かも容貌が美しかつたばかりではなく、その和歌に見られるように彼の感情は実に繊細で白絹の様な麗しさを持つて居る。遠く赴任する防人の心根を汲み取つて自分の感情を傷め、病に臥した時に世の無常を悲しみ修道の心に誘はれ、風物に接しては其の情緒を味う等、先天的な文学者の素養に恵まれて居た。だから、男女共に時代の寵児として持て囃されたのも単に門閥的のものでないと見られる。


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底本について

田原香風著『日本男色考』
茜書房刊、昭和二十二年一月三十一日発行、定価十五円


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